紫陽花の夕べ 心のレジリエンス





心の筋肉というものが、あるような気がする。




生きていることから逃れたくなるような、そのくらいの圧迫感のある重石、そんなものがじわじわとやってきて自分を圧倒する時。その一番深い底は、時間にして大体三十分程度だと本に書いてあったのを読んだ。


すごくよくわかる。確かに、底は三十分程度だと思う。


それをやり過ごせは、徐々にそれは、ほんの少しずつ潮が引くように、薄らいでくるのがわかる。


何度もそういう経験のようなものがあると、それにある程度は慣れてくる。


やってきたなとか、いつものが来た、とか。


長雨で低気圧だからかな、とか、〇〇(きっかけになるような出来事)があったからだ、とか。バイオリズムが下がる九月になったから、など。...


そして、それをやり過ごすことができるかどうかは、その時の心の状態による。


そんな時に、心の筋肉を感じることがある。


それがやってきて過ぎ去った後に、割とすぐにいつもの状態に戻ることが出来るか。


それともしばらくの間、圧倒されて動けなくなるか。


それが、心の筋肉次第、だと思うのだ。




じゃあどうやって心の筋肉を鍛えることができるのか、というと。


私にとっては次のようなことだと思う。


意識的に物事を自分にとって楽な方向へ考える癖をつける。例えば、自分が誰からも切り離されているという重石が来たときに、自分はすべての人の愛の手のひらの上にいると、意識的に考えを変えていくなど。


多少無理があるかもしれないが、そう思い続けていくと、実際に、みんなの愛の手のひらにいると思える瞬間も多々出てくる...から不思議である。


そうやっていろいろなことを、なるべく自分にとって、心地良い方向へ意識的に考えを変えていく。


自分の思いと行動に矛盾がないことも大切だ。〇〇をしたいのにそうしない、〇〇をしたくないのに、それをするということは、100%、なくしていくこと。


そして、解決できないと思われることや、思考の罠にはまってしまう、そんなことが少しでもあったなら、そのことはもうとりあえずどこかへ置いておく。決して向き合わない。


それは、所詮思考が作り出した絵空事なのだ。だから、かなり取るに足らないことなのだ。それを心から理解できてくれば、手放すのも早くなっていく。



どんなことでもいいから、自分にとって楽な方向(感覚)を選ぶ。選択肢があったら楽な方向を選択する。正しい方向(観念・信念)では決してない。少しでも自分の気持ちに無理のなくスムーズに物事が進みそうな方向を、選択することにする。



そもそも自分の感じ方がわからないという時もある。自分がどう感じているか、いま何がしたいかわからない。


そんなことのないように、普段から自分が心地よいものの方へ向かっていく。


人がどう思うと構わない、というのではなく、みんな私が選択することにはきっと賛成して喜ぶだろうと信じる。




それでもダメな時は、病院の代わりに一週間くらい、どこか人のいない水辺で、寝たり散歩したり、過ごす。...





とにかく何でもいいから、自分にとって心地よいものを探していく。そうやってなるべく心をしなやかに、雑草のようにしなやかに、しておく。



























































































































































ゆうちゃんが旅立ってから、夢の中で、それ以前よりもずっと多い頻度で、何度も家族が出てきた。


私とゆうちゃんとMちゃんの三姉妹、それに母である。


夢の中では、私と母とMちゃんで、よく、ゆうちゃんを訪ねて行った。


一番最初の夢は、事後間もない時。

電車で、みんなでゆうちゃんを、迎えに行った夢だった。



ゆうちゃんは弱っていて、座席の角にうずくまるように一人で座っていた。記憶を失っていて、なんだか傷ついているように見えた。少し子供に戻ったような、ショートカットだった。


駆け寄って肩を抱くと、頬がザラザラしていたのを覚えている。




その後何度も夢に出てきたが、だんだんゆうちゃんは落ち着きを取り戻し、いつの間にか普段のきれいな姿に変わっていたと思う。少し若返って。


昔のようなショートカットだったり、最近は、長くて黒光りのする豊かな髪の毛を肩に揃えている。


そしていつも、何か特別な部屋のようなところに居た。暖かくて明るくて、白い壁。


清潔で、赤いカンナの花が活けてあったり、グリーンがあったり。


そこ(その部屋)から、喋らずに、じっと、あるいは、はにかんで、私の方眺めていた。または一緒に夢に出てきたKちゃんに、ものうげな視線を投げかけていた。



(Mちゃんに、ゆうちゃんの夢を見る?と聞いたところ、ゆうちゃんが天国と地上の間の場所にいる夢を見た、と同じようなことを言っていた。

それはコペンハーゲン?のような、何か明るい気持ちの良いホテルのような?...ところだったと言う)




また別の夢では、やはり、私と母とMちゃんが、ゆうちゃんのところへ訪ねて行った。ゆうちゃんは学校のようなところにいた。


そして何も言わず少し恥ずかしげに微笑むと、仲間の方へ帰っていった。大学のダンスクラブのようなところに属しているようだった。


その時に、何かMちゃんがゆうちゃんに対して批判的なことを言っていたので、私はとても苦しくなった。


Mちゃんとゆうちゃんの間にちょっとしたことがあったことが、非常に傷になっていた。私はいつも逃げて何も関わらないので、そのことが罪悪感になっているのであった。






思えばうちはいろいろあった。

思えば私は、姉として、やっぱり駄目だった。

いつも逃げてばかりいた。

いまも、心のキャパシティーを超えると、逃げ足は速い方だ、と思っている。そして私の心のキャパシティーはすぐに限界線を超えてしまう。




六月の水鏡



紫陽花も、空も、水田も。

草木染めで季節の織物を染め上げたような、淡紅梅に染まっていた。少し強めに田んぼに吹き渡る夕暮れの風は、肌にしっとりと暖かかった。話すなら良いタイミングだな、と思った。



私たちは、紫陽花畑の真ん中にぽつんとある

小さな木のベンチに少し窮屈に三人で座って

暖かい夕暮れの風に吹かれながら

私はゆうちゃんの遺書の話をした。




そして私はその日の朝に見た夢を思い出していた。

私と母、そしてゆうちゃんとMちゃんがいた。ゆうちゃんとMちゃんは、お友達同士のように仲良く先に歩いて行った。

後で私と母が、合流するからね、と声をかけていた。

この夢を見て、私はあぁもう大丈夫なのかなと思っていたのだった。




わからないけれども。

生きていて、私たちみんなの関係がうまくいったかどうかわからなかった。



旅立ってしまってから、新たな関係性を迎えることだってあるのだ。

































「霊は、永遠に恩寵の状態にある。

あなたの実相は、霊に他ならない。

それゆえに、あなたは

永遠に恩寵の状態にある。」


A Course in miracles

第1章より部分抜粋